(若き)中尾万作さんとの思い出



中尾万作さんの名前の由来は明治から大正、昭和にかけ美術評論家、数奇者として北大路魯山人の番頭として柳宗悦・白洲正子・小林秀雄と日本の文化を牽引した秦秀雄氏に由来します。秦さんのもとに出入りしているときに、秦家の雑用をなんでもこなすその器用さを目にした秦さんが「お前はよろずつくるから万作だな」と呼ばれたことから、それを気に入り、自分の名のりにしたそう。友禅の下絵からスタートし、画業からやきものに転身、秦さんの縁からその子息秦曜一さんの主催する「九谷青窯」の中心的存在になったのち、独立されました。夫婦二人三脚で工房を営み、いまではご子息の笑平さんも同じ道を歩いておられます。



万作さんのうつわに、はじめて触れたのは自分が開いた「クロワッサンの店神戸店」の取り扱い商品だった九谷青窯の品物としてだと思います。初期のクロワッサンの店で印象的だったのは、和食器をすべて石川県の「九谷青窯」のもので揃えていたことでした。素朴な初期の伊万里焼をいまの暮らしに蘇らせようというこの窯は、ベテランの職人さんはまったく不在で、ほとんどやきもの経験のなかった都会の若者たちが集まって、一人の手でろくろから絵付けまで行う、効率化とは無縁のいわゆる「グループ窯」。初期は、同じ種類の器でも大きさが一回り違ったり、風合いがぜんぜん違ったり。見本だけがあって、数人がそれぞれに手だけで作っていくので当たり前なのですが、お客様はなかなか納得していただけません。シンプルな和食器がほしいという方を多かったのですが、5枚のうち1枚だけ大きさが違うからといっておやめになるとかは日常茶飯事でした。

リーダーの秦さんは「青二才の窯だから青窯(せいよう)だ」とかいっておられましたが...いまでは十数人が在籍する大きな窯になり、素晴らしい作家さんを綿々と輩出されています。今では華やかな器も多いですが、当時は素朴さを再現するという意味で、まったくの白磁か、白磁に呉須で線とか点を描くといった最小限の絵柄のものでした。ですがたまにうねるように闊達な筆使いの網目模様の皿など少し異質なデザインのものがありました。今考えるとそれらが、そのとき青窯の中心的存在だった万作さんの創意のものだったのでしょう。



そんな万作さんが突然私どもを訪ねてこられたのは、30年以上の前の暑い日だったと記憶します。青窯から独立して出身地の堺に窯を開かれた万作さんは、秦さんからの紹介で当時、神戸のトアロードの坂の上にあった私どもの店まで、自作を段ボール箱に詰め込んで、なぜか真っ赤な顔をしてお越しになられたのでした。

「暑かったからビールを飲んできた」とか言っておられましたが、最近になってお聞きすると、店に作品を持ち込むこと自体が初めてで思い切りがつかず、前を行ったり来たりして、景気づけに一杯飲んでから飛び込んだというようなことを話しておられて、見た目と違う(?)繊細な万作さんの人柄を感じました。もちろん、私たちも慣れ親しんだ九谷の白い釉薬の上に、伸び伸びと広がる万作さんの自由さに惹かれ、それ以来クロワッサンの店、トアロード・リビングス・ギャラリー、そしてこのYUIlivingsとずっと変わらないお付き合いが続いています。



食の世界から引っ張りだこの存在になっても、跡継ぎができても、かわらずに万作さんは万作さんだと、今回作品展のために久しぶりに窯を訪れて実感しました。見ていると白い器の上に自由闊達なその性格のように愉しい文様・デザインが次々生まれてきます暮らしの中に彩りをそえ、また料理を引き立て、美味しい食卓を演出するチカラがあります。どこまでも自分の世界を広げて言ってもらいたいと思います。

トアロード・リビングス・ギャラリーオーナーYUIlivingsアドバイザー
高井安子

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